江戸からつづく生粋の住宅地に思う

2009年03月19日

東京都の「城北エリア」と聞いて、すぐにイメージが浮かぶのは実際に住んでいる人か、何かしら地縁のある人ではないだろうか。もっとも「城北」という言葉に明確な定義はなく、なんとなく東京の北側あたりと思っている人が多いかもしれない。今回お話しするのは、不動産業界で「城北」と呼ばれている練馬や板橋方面ではない。本来の意味での江戸城の北側、どちらかといえば「東京の中心」であり、ストライクゾーン少し高めのエリアだ。

東京の地図を真上から見ると(あたりまえだが)、皇居を中心に内堀、外堀と環状に道路がめぐり、広がっていく。都心であるがゆえにさまざまなオフィスビルがあったり、商業施設や文化施設があったりと実に多彩なのだが、ほんの一歩路地に入っただけで古い建物がひしめき合っているのが東京らしいところ。先の戦争からあわただしく復興してきたのだから、混沌とした風景も納得できる気がする。

そんな東京の街並み風景を変えてきたのが、都市型マンションと言っても過言ではない。山手線「駒込」駅のそばに六義園がある。もとは徳川5代将軍・綱吉の側用人、柳沢吉保の下屋敷で和歌の世界を再現しようとした日本庭園である。毎年春にはシダレザクラの夜景を観賞に来る人々で賑わっている。この六義園周辺エリアは実に多くの分譲マンションが供給され、本郷通りや不忍通り沿いでは何本ものマンション建築が六義園を囲む。ちょっとスケールが違うが、気分はN.Y.セントラルパークの高層マンションだろうか。


マンションの広告をつくっているといろいろと得るところがある。以前、六義園のほど近くに木戸孝允(きどたかよし・別名桂小五郎)の邸宅跡地に新規物件を販売するというお話をいただいた。現地を見るとその中心に「木戸池」とかつて呼ばれていたらしい池があり、それを囲むように住宅やマンションが立ち並んでいる。そこには明治天皇が病気療養中の木戸を見舞ったという石碑があって、現在は私有地の中にあるため、この池は住民たちの意志で保全されていると記されていた。

屋敷周りについて古地図や文献をあれこれ調べ、郷土館にいる詳しい学芸員の方に尋ねてみると、その池の水脈は数キロ先の上野の「不忍池」までつながっていると聞かされて驚いた記憶がある。六義園一帯は高台なので、このあたりから水が湧き出し、より低い上野方面へ水が流れているのだろうかと推測してみた。そういえば南北線を通したときにこの周辺の水脈に影響があったようなことも耳にしたことがある。

幕末を駆け抜け、維新を成し遂げてきた木戸孝允。彼はこの土地でどのように庭を愛でていたのかと想うと興味深い。駒込に隣接して桜のソメイヨシノ発祥の地として知られる「染井」があるのだが、そのソメイヨシノの原木がこの庭の出生であるらしい。きっと彼は染井の植木職人を呼んでその仕事ぶりを日がな一日眺めているような「粋な人」だったのかもしれない。

六義園の南側には「大和郷」と呼ばれる高級住宅街がある。六義園とそれに隣接する加賀藩の屋敷跡地は、明治維新後に三菱財閥の岩崎家の所有となるが、大正時代になると田園都市の理想を掲げた整備計画のもとに住宅地として分譲された。今も整然とした街並みは受け継がれ、周辺エリアとは一線を画していて人気が高い。ここにある大和郷幼稚園は「お受験」が難関なところで、当時某有名タレント夫婦が子供のために居を構えたとか噂が流れていた。

昔ながらの都心の住宅地には時代が移り変わっても決して動じることのない独特の気概のようなものが漂っている。駒込のほかにもこのエリアでは小石川、本郷などが「生粋の住宅地」である。本来、江戸以来の市街地は、麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂などであり、山手線の渋谷、新宿、池袋、ましてやそれより西の方面は、かつて東京ではなかったのである。

土地というのは社会経済の変動によって大きく取引価格が左右されるものだ。バブル期には実需で欲しいと思う庶民には手が届かない価格になるし、ある程度地価が下がってきてもやはり社会情勢を反映した個人のお財布では所詮、高嶺の花であることが多い。

一軒の家を建てるのと比べて、マンションはまとまった土地に効率よく集合住宅を建てることによってさまざまなメリットがある。その中でもっとも恩恵があるのは「その土地にしかない住環境が手ごろな価格で得られること」ではないだろうか。だからこそ住宅を選ぶときに、住環境へのこだわりはどうしても妥協したくない点だと思う。

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